ひょっとすると公開を取りやめるかもしれません。
以後長い怪文章になります。
- 小、中学
平成元年=昭和64年は確か小学6年生だったハズで、年明けからえらい事になったもんだと言われていました。
翌年、公立中学に入るのですが、隣に偏差値が地域で一番下の高校が併設されていまして、夏休み前になると高校の体育館に企業の偉いさんがやってきて全校集会で「うちの会社に入ってください」と演説してました。
…バブル期の最後ですね。
中3の頃にはバブルが弾けたから進路は慎重に選べとか言われはじめまして、私も親に半ば騙されて大学付属高校(男子校)に入学します。
両親はどっちも高卒だったので焦ったのでしょうが、教育方針を誤ったかもしれません。
氷河期世代でがっつりファミコン世代だったのですが、ファミコンを買い与えられたのは87年。スーファミが90年の11月ですからかなり後期。買ってもらったカセットも2桁いかなかった気がします。
ちなみにその後スーファミ、PCエンジンは元より、据え置きコンシューマゲーム機は三十路を過ぎてから中古で買ったドリームキャストまで所持していませんでした。
中2の時に親にせがんでパソコンを買ってもらったのですが、コレがMSX2。既に時代はPC-98であり、8Bitではなかったのですが…
ちなみに秋葉原に通い始めたのもこの時期からですが、流石に社会人になるまでは年に数回程度でした。
親が教育方針を誤ったと書きましたが、制限すれば勉強するだろうと思った所が間違いだったと今にして思います。
…自分は昔から「抑圧されている方が地力を発揮するタイプ」だったんですね。
- 高校(1991~)
高校時代ゲーセンに入り浸り、家に帰れば勉強そっちのけで時代遅れなMSXに向かい、究極の速度を出すべくZ80アセンブラを習得していきます。
ゲームが無いなら作ればよいという志向に走り、投稿ゲーム雑誌MSX-FANの投稿者になったりもしていました。
…結局補欠採用でディスクに載ったことはあったけど、本採用された事は無かったですね…
そのMSX-FANも廃刊になってしまうのですが、とうとう「ゲーム制作者になる」という方向にとらわれます。
当時の成績表が出てきたんですが…
担任教師に卒業をお祈りされている。
微積分で赤点取ってるから当然、交流波形の位相計算のある電気もメタメタ。
電子電機科でコレだと当然、電気設計系の進路はとりませんよね。
ちなみに情報で10がついてますが、コレは情報の授業で行われた Z80 アセンブラ実習を学年で唯一解けたから。
…情報科に入ってれば相当道が違っていたんでは…
- 専門学校(1994~)
親の必死の説得も空しく高校を下から10番目以下の成績で卒業して、専門学校のゲーム課へ。
この時代には完全に世はバブル崩壊後の暗黒の時代で、専門学校には明確に
「卒業制作でゲームを1本作ってそれをもって就職活動する」という目標がありました。
音楽学科等の他学科との横の協力なんかもあって、狂気に似た活気がありましたね。
私は部活の合気道の傍ら、ひたすらゲーム企画書を書き、講師にもっていってはダメ出しされる日々を送っていました。
その後、熱意に折れた講師から呼ばれて、講師の先生がプランナーとして勤めているゲーム会社にバイトで入る事になり、これが最初の会社となりました。
尚、部活とバイトを半々でやっていたのですが…部活の最中に受け身を取り損ない、肺の呼吸を全部吐いてしまって人工呼吸(マウストゥマウスでは無く、所謂カツ入れ)で蘇生するという事故を起こして、自主退部。
師匠はどうも植芝の道場の出の方だったそうで、もったいない事をしたとは思うのですが中途半端は命にかかわるのでしかたなかったですね。
- 最初の会社(1996~)
最初の会社は給与遅配をザラに起こす零細ソフトハウスで2年ほどしか勤めなかったのですが、その後長年に渡って付き合う友人や先輩に出会えた貴重な時間でした。
学生時代のバイトからスライドしてプランナーとして入社したのですが、約1年後、前述の先生の退社を機に
「退職するかプログラマーになるかを選べ」
と言われてしまいます。
ここから10年プログラマーをやっていくのですが、まあ「野生のプログラマー」のまま、いきなり実践投入ですから…デビュー戦のゲーム発売から2か月くらいたったある日退職を申し渡されます。
…といってもこの会社自体も相当傾いていまして、その後2年後くらいには倒産したようなのですが…
地力が無い事を痛感していた為、退職後は半年ほど就職せずVC++の勉強をしてましたね。というか、そもそもアセンブラ絶対主義者だった自分はC言語を毛嫌いしていた節があり、そこが足を引っ張っていました。高級言語に慣れなければと考えた事自体は間違いではなかったと思います。
- 2社目(1999~)
1月に入社して10月15日に退職した気がします。
「ゲーム会社はアカン」という事で、一般系中堅ソフトハウスに入りました。
私の職歴の中で唯一背広で勤めていた時期です。
数か月で契約社員から正社員になった記憶がありますが…いわゆる「ファイアーワーカー」の部署に所属になりました。…他部署が炎上させてヤバくなった仕事を終わらせに行く部署ですね。
全員家に帰ったら寝るだけの生活をしており、当時のヒット曲「ダンゴ三兄弟」を聞いた人間が居なかった為、契約相手の偉いさんがCDを買ってきてくれて、職場で流してみんなで「これが噂の曲か」と言った記憶があります。
私は第二新卒枠だった訳ですが、同世代は次々に去っていき、私も最後の仕事は100日休まず終電勤めしてました。
この当時は通勤電車で読む漫画が唯一の娯楽になっていましたね。
当時なぜか『企業戦士ヤマザキ』にハマっていました。最終話は今読んでも泣けます。
最後の方では生き残った若手を次世代の教育係に充てるという社内プロジェクトがあって、この教育係役を打診されもしましたが…既にメールで部長に退職を申し出ていた後でした。
同世代のOLさんに「〇さんすごいですね、そんな風になりたいですよー」とか言われまして、曖昧な返事をした翌日に退職したのを未だに覚えています。
(メールで退職を打診した部長は職場に告知してなかったので、実質蒸発する事に)
覚えていると言えば、退職後に会社から来た手紙の書き出しが
「金木犀の香る季節、〇様におかれましてはご健勝の事と~」
と書かれていて驚いた記憶があります。
最初の会社がひどかったので、事務の方が丁寧な書類を送ってくれると思ってなかったんですよね。
- 内定取り消し(2000/1)
「結局ゲーム会社じゃなくてもダメじゃないか」と思い立ち、再度ゲーム会社を目指します。
この時期には i386 (MMX 命令も含んでいましたが便宜上)アセンブラを交えたゲームライブラリを自作していたので、これを使ってデモソフトを作成。11月の末には内定を取ったのですが…翌年の正月明け、内定者が社長に呼ばれて全員内定取り消し。
社長のポケットマネーから頂いた交通費1万円でしたかね…
- 3社目(2000/8~)
しばらく放心していましたが、なんとか8月にゲーム会社に就職。ココが最も長く勤めた会社になりました。
…といっても、2年しないうちに、新進の企業にM&Aで吸収されてしまいます。この企業は吸収した当時こそマイナー証券でしたが、私の在籍中に東証2部、現1部へ成長していきます。
この会社は当時のアップルの真似をして月一回の全社会議に誰でも参加ができました。
…といっても開発部は誰も出たがらなかった為、開発部で浮いていた(正直いらん子だった)自分が毎度出席していました。
この会社に入って最大の財産はこの会議に出られた事でたね。大企業の全社会議って一見の価値がありますよ、本当に。
で、本職のプログラマはと言えば、これだけ良い環境にしては伸びなかったなあと。
ゲーム会社にプログラマーとして勤めていたもののあんまりゲーム作っていなかったんですよね。
VCの腕を磨いていた事もあって、コンバーターやらプラグインやらをひたすら作って、ツールプログラマーメインでゲームはほどほどのようなポジションに。
自分もこのポジションに甘んじた為、伸びなかった事とVCにこだわり過ぎた事が致命傷になりました。
もう、この時代にはいかにして『他人のライブラリを使えるか』『言語を乗り捨て、乗り換えできるか』が最も重要な要素になっていたんですよね。「自分流」なんて一番やってはいけない事だったのです。
なによりゲーム会社でゲームを作っていない時間が長いと、何を自分がやっているのか判らなくなっていくんですよね…
そんなこんなで 2007 年、いらん子状態で、子会社に出向。さらに出向先で出向希望者を募られまして。
やぶれかぶれで手を挙げたのですが、コレがプログラマ人生最大の大仕事になりました。
なんと任天堂発売のビックタイトル。タイアップ映画に開発が間に合わない為、追加要員として投入される事に。
…めちゃくちゃ厳しい職場でした。後に数えたら半年で全日休12日しかないという有様でした。
ただまあ、すごい熱量と先進的な開発を目の当たりにできた事と、まっさら且つ良好な人間関係を保ってくれる方が居た事
※先行して開発に入っていた開発会社の社長兼プログラマさん
が功を奏しまして、充実していました。
使用言語はCでしたが、オブジェクト指向への切り替えを目論んでいてルールがあり、開発が終る頃にはオブジェクト指向プログラミングの組み方や育て方がある程度できていた気がします。
※それまでもVCを使ってやってはいましたが、いかんせんツールプログラムは一人で完結していたので、他人との協調色の濃いオブジェクト指向ができているかは自信がなかったんですよね。
なんとか大仕事を終えて、帰還できたのですが、私の悪運もここまで。
…リーマンショックが起きてしまいまして
「M&Aで会社を急拡大したIT企業はヤバイ」
という風潮から会社の株が大暴落。
直ぐに利益にならない上に維持費が高い事から開発者から希望退職者を募る事になり 2009 年 5 月に退職と相成りました。
- 就活、職業訓練(2009/5~)
例によってしばらくのんびりしてから、就活開始。
流石にゲーム業界は引退しようという事で、一般系ソフトハウスを回るもののゲーム会社出身者は信用されず。
当時MFC(Microsoft Foundation Class)を全て使った事があり、大抵のウィンドウズアプリなら作れたのですが、
「Javaを使えない奴は要らない」
と門前払い…ちなみに、現在は Java も MFC も総じて要らない技術になっているそうです。
この当時はプログラマーは受難の時期でして、どこも焼け出されたプログラマーで溢れていました。
そもそも、高額だから激務に耐えていたプログラマーを安く買いたたいたので、誰も復職しなくなっていきまして…すると残ったプログラマーが辞めたプログラマの分まで仕事をするので激務山積の負の連鎖になっていきます。
業界が気づいた時には、時すでに遅し。
2011 年辺りにはプログラマは売り手市場になりまして、私の元にも
「C言語だけでも良いので、それなりの報酬も払うから来てください」
というメールがやたら来るようになりました。…種を明かせば、保守プログラマーにすら逃げられた会社が契約を存続させるため、人をかき集めていたんですね。
当時の偉い人たちは不足したプログラマーは中国から迎え入れれば良いとか言っていましたが、当の中国人プログラマーすら日本に魅力が無い上に東北震災が重なり、本国に帰って行く有様でしたから推して知るべし。
が、流石にリーマンは格が違いました。半年の就活の末、職が見つからず職業訓練校へ。ここで半年メカトロを学んだもののそもそもメカトロの求職が無い。
で、修了後しばらく経った 2010 年 8 月とうとうビルメン業界に飛び込む事になりました。
- 4社目(2010)
プログラマとしての最後の仕事から1年以上が経ち、プログラマとしては命運尽きたと悟って、
「おっさん臭い仕事をしよう」
と、埼玉ではトップテンに入るらしい地方中堅ビルメンの東京支店に入社。
ここでの仕事は清掃管理。管理?とは思ったものの採用されたら行くしか無い時代です。
…で、やっていた仕事はパチンコ屋の毎朝の清掃の管理。…字面から想像できないほど壮絶な仕事でしたね。
パチンコ屋さんというのは毎日の営業時間前か後に全店清掃を行い、月に一度大清掃を大抵行っています。で、私はこの毎日の清掃を見ていたのですが…
通常毎日清掃は、(パチンコ台数÷60~80)人+トイレその他要員二人の人数のパートさんで清掃している訳ですよ。
1店舗10人前後になりますね。
この人たちの毎日の出勤シフトを作り、欠員が出れば埋め(現場で清掃)に行き。
作業に不都合があれば修正し、作業員同志でトラブルが起これば仲裁に入り、資材が足りなければ注文したり買い足したりして補充し。店長から呼び出されれば出かけていき、無茶なお願いを現場のおばちゃんにして回る。欠員が出れば求人広告の原稿を書き、広告会社と折衝し広告を出し、応募があれば面接する…
そんな仕事でした。
ちなみに資材なんですが、私はペーパードライバーだったため、電車とバスで営業しており10Kg前後の薬剤やらモップやらを抱えて移動してましたね。
モップはともかく薬剤は今の法律では電車に乗れない気がしないでも無いです。
そんなこんなで仕事もだんだんと慣れ、担当店舗も4店くらいになったのですが…
各店を回って営業する傍ら、本社(大宮)のPC系トラブルの解決もしていまして、
全社中(社員約50名、パートを含むと約1000名)でもパソコンをまともに使えるのは私だという事になりまして。
パソコン担当兼電子入札担当として 2011 年の初頭本社に引き抜かれます。
で、電子入札の応札手続きをしたり、一般共同入札の落札業務をしたりをしている所で、2011 年の春、会社がとんでもないチョンボをやらかします。
中央省庁の警備を落札したのですが、どう見ても人員が足りない。
…書類を渡されて、翌日から夜勤ありの警備員になってました。
まあ、私はゲーム業界等での経験から自分の限界仕事時間を知っていたので
「36時間働くから36時間休みをくれ」
と最初から交渉していました。ちなみに36時間は連続労働では無く、途中に4時間の仮眠休みが入ります。
…結局この仕事は3か月ほどで破綻するのですが、会社から補填で入った社員のうち、最初から最後までやり遂げた人間が私を含めて2名のみとなり、人生最初で最後の昇進となりました「主任」ですけどね。
この省庁の思い出は色々とあるのですが、二つ挙げますと…
一つ目は、この仕事の半年ほど前に私は腎臓に結石ができまして、衝撃波破砕手術を受けた後でした。腎臓周辺を痛めた状態で血尿を流しながら仕事をしていたのですが、会社の警備部がグダグダで、防寒用コートを揃えていなかったんですね。腎臓を傷めると体温調節ができませんから、4月の寒空の下真っ青になりながら立哨をしていました。
…笑い話のようですが、命にかかわりますね。
もう一つは、3/11。東北震災直後で、どの省庁も極端な節電を行っていました。
省庁の室内も夜にならないと点灯できず、夕暮れ時はPCモニターの明かりのみという、新海誠監督の映画のような光景になっていましたね。
警備の契約が終了し本社に帰ったのもつかの間、東京支店に再引き抜き。
気付けば8店舗100人を率いる事態に。
ちなみに清掃時間は全店舗7:30~9:30なんですが、上司は「週に一度は各店舗を見回れ」と物理的に不可能なお達し。
2013 年には、お客さんの企業が数店出店する事になり、そのうち小さなお店の立ち上げを担当する事になりました。
ここで生涯で初めて「清掃作業を設計する」という仕事を行います。
店舗見取り図を見ながら、どこをどうやって清掃するかを決め、人員と時間を割り、使用資材を割り振る…
平行してシルバー人材センターに通うなど求人を行い、開店前店舗で清掃研修を行う。
開店後2カ月ほどでちゃんと仕事が回るようになりましたが、なんとも大変な日々でした。
忙しいながらも順風満帆に見えた日々でしたが、気づけば貯金が底を尽きる事態に。
…管理営業って持ち出しが多いんですよ。
現場のおばちゃん達から話聞くためにマックでお茶出しするだけでも結構な事になりますし。
結局 2013 年 11 月退職。
最後は社長さん自ら引き留めに来られました。まさか役員手当込みで19万6千円だったとは知らなかったとか。社長秘書の仕事と給料の上昇で留まって欲しいと言われましたが、次もあったのでお断り。
ちなみに、社長さん自身は豪胆な好人物でした。
省庁警備の際も、穴埋めに入った社員が軒並みダウンして去っていく中で、なんと一兵卒(警備隊長)として本人が現場に乗り込みます。
小偉そうな事を並べる社長より、役に立つかは二の次で現場にやってくる社長の方が好感が持てますね。
惜しむらくは、会社を継ぐ2世の専務も連れてくるべきだったなあと思いました。
初代が健在なうちに厳しい現場を経験しておけば、今後も安泰だったのではないかなと。
- 5社目(2013/11~)
間髪入れずに次の仕事に。プログラマ時代退職すると次の仕事に入るまでに半年ほどかかる悪癖があったので直そうとしてすぐに切り替えた記憶があります。
設備会社の正社員として六本木にあるホテルの設備員になったのですが…
うーん。ココは酷かった。
基本的には待機室に居て、トラブル通報があれば解決しに行き、深夜はゲストの入らない施設の修繕を行うといった仕事なんですけどね。
9時から21時の通常勤務と21時から9時の夜勤務、9時から18時くらいの中番の3シフトがあったと記憶してますが…毎月勤務シフトがバラバラ。そもそも24時間体制で1日に必要な人員が17人なのに全人員で19人しか居ないため、まともにシフトが組めない。
定年を超えて嘱託として働いて頂いている方が数名居まして、腕は良いのですが体力的な事を考えてほぼ中番、早番はこの方々…となると遅番メインになる訳です。
出勤の2/3が遅番で不定期となると、朝に生活していたのか夜に生活していたのか記憶が繋がらなくなっていきます。
又、起きられるかが不安になるため、3時間おきに目が覚めるようになりますね。
当然ミスも連発しますし、仕事が頭に入りません。なんせ、教えられたのが朝だったのか夜だったのかすら判らないのですから。
ほとんどの仕事は電球の交換ですが、電気系、ガス系、水道系、棚などの緩みの修繕、壁や床の修繕、空調管理、噴水等の設備管理、プールの塩素濃度の管理、照明管理、害虫、害獣駆除、そして200以上あるメーター類の現地での数値のチェック等、異常に広範囲をカバーしていました。
退職時に報告書のログを確認したのですが、私のかかわった案件は1060件あったようです。10カ月でこの分量はなかなかハードだったかと。
非常にストレスフルな職場で当然荒れていまして、2014 年の7月にロイヤルスイートのスタンドライトを割ってしまったのを機に、退職しました。
ちなみにこの現場にはこの清掃管理時代の私のように現場担当営業が居たのですが、滅多に現場に現れず、退職希望者が出ると「やめないでくれー」とお願いしに来るだけ、という残念な方でした。
この職場で毎月誰かが辞めていくのが判らないとか言っていましたが、これだけストレスフルな職場では無理も無いのでは?
というか、倉庫で在庫管理していたら「金貸してくれ」とか言ってくるヤ〇ザが普通に居る時点でアウトだと思いますよ?
…ちなみに、退職3日前に金は返してもらえました(当然利子なんてない)どうやら、発覚を恐れて他の人から借りたてきたお金らしいです。
- 6社目(2014/8~)
で、現在の工場(こうば)になる訳です。前職に対する当てつけで、パートを当てて社員を退職しました。その後にホテルの職場が改善されたかは知りませんが多少は反省してほしいものです。
前職は通勤に往復3.5時間かかっており、拘束12時間で昼夜バラバラの病んだ状態に対して、現パートは通勤片道が自転車で15分、定時職。その代わり給料は生活費に対してギリギリマイナス。
とりあえず病んだ心身は回復し、その後どうなったかは当ブログにある通りです。
唐突に糞長い怪文章を書いてしまいました。なんと2日もかかっています。
なんというか、過去をいったん振り返らないと前に進めなくなる時がある訳ですよ。
いや、振り返ったからって前に進めるかは判らないのですが。
コレが5月病という奴なんですかね?
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